黒字=教育制度と小学校の歴史、紫字=国と地方制度の歴史、緑字=殿ニ校区の歴史、赤字=災害と防災の歴史
約7,000~6,000年前には、大阪平野の大半が河内湾と呼ばれる海になっており、淀川は渚から磯島にかけての辺りで河内湾に注いでいたと考えられている。河内湾は、河内潟、河内湖と姿を変えながら5世紀頃まで残る。
校区に隣接する招提中町遺跡(旧招提村から旧坂(阪)村にひろがる遺跡で、現在の招提中町、招提平野町、東牧野町にあたる)からは弥生時代前期(紀元前200年前後)から平安時代に至る遺構・遺物が発見されている。特に、弥生時代中期の竪穴住居跡や方形周溝墓が発見されており、ムラが形成されていたと考えられる。招提中町遺跡西側の九頭神遺跡(旧坂(阪)村、現在の牧野本町1丁目から2丁目にあたる。)でも、弥生時代後期末以降の住居跡などが発見されている。
樟葉宮で継体天皇が即位する。樟葉(久須婆)は淀川を渡る交通の要衝として古くから開けており、その地名は、古事記や日本書紀の崇神天皇時代の記述に登場する。古事記に登場する枚方の地名では最も古い。敗走する軍勢の屎(くそ)が褌(はかま)についたことが由来とされている。
牧野阪2丁目にある「片埜神社」が成立する。垂仁天皇11(紀元前19)年に出雲の国の豪族「野見宿禰」が河内国を拝領し、出雲の祖神「素盞嗚尊」(須佐之男命)をこの地に奉斎して、土師氏の鎮守としたのが草創と伝えられており、欽明天皇の勅願をもって「片野神社」と称する。
この頃、聖徳太子が、7寺(四天王寺、法隆寺、法起寺、葛木寺、定林寺、橘寺、蜂岡寺)を建立する。7寺の内、葛木寺だけが所在不明で諸説があり、現在の牧野本町2丁目付近にあったとされる九頭神(葛上)廃寺とする説がある。(地名大辞典)明治20年代には牧野本町の「ドンドン山」と呼ばれた茶畑で「金銅造誕生釈迦仏立像」と呼ばれる白鳳時代の仏像が発見されており、昭和8年6月にも岡田槌松氏所有の茶畑から金銅仏が出土するなどしている。住宅開発などに伴う発掘調査により焼失した塔の基壇らしき遺構が発見されるなどしており、付近には「金堂」という小字があったことなどから、相当規模の伽藍を持つ枚方市最古の寺院だったと考えられる。遺物から平安時代前期頃のアテルイの時代頃まで存続していたと思われる。寺名が不明なため、古い地名から九頭神(葛上)廃寺と呼ばれているが、今後、寺名を示す遺物が発見されるなどすれば、校区のみならず、枚方市や大阪府の歴史を塗り替える可能性が大きい。なお、誕生仏とは、釈迦が誕生した時に七歩あゆんで天地を指さしたという故事によって、天上天下唯我独尊の形を示しているもののこと。
大化の改新で公地公民の原則に基づき国・評(こおり)・里による地方支配の方針が示される。従来の国造(地元の有力豪族)に代えて官位として国司を中央が任命する形となる。枚方市域は茨田評に属する。
薄葬令が出され、葬制の簡素化が促される。(古墳時代の終焉)
庚午年籍(最初の全国的な戸籍)が完成し、地方支配の基礎が確立する。
市史12巻142頁では、「この頃、九頭神廃寺が創建される」としている。
大宝律令により律令支配に基づく中央集権体制が確立する。「評」が「郡」に改められ、国・郡・里制となる。この頃までに「五畿七道」の制度が確立する。五畿とは畿内(都に近い国)である大和、山城、摂津、河内、和泉の5国を指し、七道とは東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の7つの官道と、これにつらなる国の領域を表す。官道の中では都から太宰府に至る山陽道、西海道を大路と呼んで重視し、東海道と東山道が中路でこの次に位置づけられた。
河内国茨田郡から交野郡が割置される。校区周辺は交野郡に属することになる。
前年の平城京遷都により、山陽道に楠葉駅が新設される。その後の平安京遷都により、楠葉駅は南海道の首駅(最初の駅)となる。
「里」が「郷」に改められ、郷の下に里が置かれる。交野郡は、三宅、田宮、園田、岡本、山田、葛葉の6郷とされるが、この頃に校区周辺がどの郷に属していたかは定かではない。市史では所在の判っていない園田郷か岡本郷に比定されているが、招提村は山田郷に属していたとされており、後世の楠葉牧の領域から葛葉郷の一部であったとも考えられる。
蝦夷の首長大墓公阿弖流為(阿弖利為、タモノキミアテルイ)と盤具公母礼(イワグノキミモレ)が河内国植山(杜山又は椙山とも)で処刑される。植山を交野郡上山村(後の宇山村)とする説があり、宇山東公園に説明板が設けられている。古来から、牧野阪古墳を「首塚」、宇山1号墳と2号墳を「胴塚」と呼んでいたことから、これをアテルイのものとする俗説もあるが、宇山の両古墳については発掘結果などから築造年代が異なることが明らかであり、牧野阪古墳についても「古墳」であるとすれば、600年代末までの築造ということになることや、アテルイの時代には片埜神社が成立しており、牧野阪古墳付近はその神域にあたることから、蝦夷の墓とは考えられない。
延暦8(789)年に朝廷軍とアテルイが戦った「巣伏の戦い」については、日本書紀に続く正史である「続日本紀」に詳しく記述されているが、アテルイの処刑については、続日本紀の後となる「日本後紀」が応仁の乱などの影響でその大半が失われており確認できない。処刑時の記述は、正史を抜粋して作られたダイジェスト版とも言うべき「日本紀略」に残るのみで、処刑地が複数あって定まらないのもそのためである。
延喜式が完成する。「式」は「格(きゃく)」と並んで律令(=基本法典)を補完・代位する法典で、律・令・格・式の順となる。延喜式神名帳に官幣の「小社」として片野神社(現在の片埜神社)と久須々美神社(九頭神神社)が記載される。久須々美神社は、片埜神社の西方約250m(現在の牧野本町1丁目付近)にあったとされ、東隣に九頭神廃寺があったと思われる。
片野神社(片埜神社)に菅原道真(延喜3(903)年没)が併祀される。菅原氏はもとは土師氏であり、野見宿禰の後裔とされている。当時の片埜神社は広大な神域神領と宏壮な社殿を有し、官幣社として隆盛を極めた。
文献に「楠葉御牧司」が初見、この頃までに摂関家領の河内楠葉牧が成立、最大期には天野川を越えて田宮郷にまで及ぶ広大な領域を持つ。牧とは、牛馬を飼育する土地のことで、楠葉牧では摂関家に貢上された馬を飼育していたとされる。平安末期には船橋川を境に河北牧と河南牧に分けられていたとされており、校区周辺は河南牧にあたる。(府史2巻1122頁-)ただし、穂谷川を境とする説もある。(地名大辞典)鎌倉期には岩清水八幡宮の荘園が増え、摂関家の支配力は後退する。
文献に「養父」庄(荘)が初見、岩清水八幡宮の荘園の一つとされる。平安期には岩清水八幡の宿院の一つである極楽寺領、鎌倉期には弥勒寺領だった。極楽寺は、徒然草の第52段「仁和寺にある法師」に登場する。
元弘の乱が起こり、南北朝の動乱期に入る。11世紀からこの頃まで招提寺内町の前身的集落である「日置郷」があり、東高野街道の往来で栄え「日置千軒」と呼ばれていた。
東高野街道は、平安時代初期に都(京都)と河内国府(藤井寺)を結ぶ官道(国道)として整備された道と考えられており、河内国を南北方向に直線的に貫く数少ない街道。大阪府内では、府道長尾八幡線から国道1号(枚方バイパス)、府道枚方交野寝屋川線(水道みち)、府道枚方富田林泉佐野線を経て、旧国道170号(旧外環状線)として残っている。官道としての名前は伝わっていないが、東高野街道と呼ばれるようになったのは、平安時代末期に、仏教信仰が一般化する中で、高野山への参詣道としてにぎわったことから、堺を起点とする西高野街道に対して東高野街道とされたもの。枚方市内には、「高野道(こうやみち)」の地名が残っている。
文献に「牧郷」の名が初見。牧ノ郷、真木郷とも書き、牧野の名の起源とされる。平安期以来の楠葉牧に由来するものと思われる。
文献に「真木ノ城」(牧城)の記述が見受けられる。牧城は、御殿山に比定されている。(市史12巻60頁)
文献に河内国交野郡「さか」郷の名が初見。明治維新期までは「坂」の時が当てられている。
近江国守護職六角氏の末流にあたる片岡正久と川端綱久が、室町幕府第12代将軍足利義晴から河内国(河州)交野郡牧郷の無主荒地の下付を受け、本願寺第八世蓮如の六男(第13子)である蓮淳(兼誉)を招いて浄土真宗の「招提惣道場」を建立し、招提寺内町が形成される。「招提」とは、「御仏のもとに修行する人たちの場」という意味で、道場の成立に伴って地名となった。(唐招提寺の「招提」も同じ語源)
「寺内町」とは、浄土真宗寺院と門前の集落を、ひとまとめにして寺院内部とみなすことで、さまざまな保護を与えたものをいう。具体的には、集落の周囲が土塁・堀などの「構(かまえ)」で取り囲まれ、諸課役免除をはじめとする、いわゆる寺内特権が領主から認証されている「町」のことをいう。
蓮淳の御堂に本願寺第十世法主証如から本尊の開基仏が下付される。
片埜神社所蔵の牧一宮神田帳と一宮反銭納帳に「舟橋郷」の名があり、上山(現在の宇山)や養父、塚本(現在の南船橋)が属していたとされる。
招提寺内町の禁制書に「河内国招提寺」や「河州招提寺」とある。元亀3年の禁制書には「河内国招提道場」となっている。禁制の内容は、「当手軍勢甲乙人等濫妨狼藉事」「剪採竹木事」「相懸矢銭兵粮米事」で、特に3点目に寺内町としての特徴が見られる。
河州牧郷一宮禁制の制定。禁制の内容は、「当手軍勢甲乙人等乱妨狼藉事」「剪採山林竹木事付荒作毛事」「壊取家事并放火事」で、3点目で招提寺内町と明らかに異なる。
織田信長が招提に陣を構え、招提寺内町に安堵状を下す。
豊臣秀吉が明智方についた招提村の自治権を剥奪して検地を実施、招提寺内町が崩壊する。
豊臣秀吉が大坂城(錦城)の築城に際して、城の東北に当たる片埜神社を鬼門鎮護の社と定め、修築する。当時は「一ノ宮」(河州一ノ宮・河内一ノ宮・牧一ノ宮)を社名としていた。
検地帳に「川嶋村」の地名が見えることから、上島村と下島村はこの頃までは川嶋(島)あるいは河島という一つの村であったと考えられる。川嶋は川中島に由来し、古くは淀川が現在よりも東寄りに流路を持っており、その川中島を開発してできた村であると考えられる。
豊臣秀吉が文禄堤を整備して、京街道が開通する。
招提村に招提今池(桜今池)がつくられる。(まんだ17号39頁、市史3巻160頁)
豊臣秀頼が片桐且元を総奉行として、一ノ宮(片埜神社)の本殿、拝殿、築地、経堂、別当などを再建する。
上山家先祖の又右衛門が上山姓を受ける。
上山村を宇山村に改称する。
「招提惣道場」の寺号を「敬応寺」と定める。
この頃までに、京街道が東海道の延長として整備され、枚方宿が成立する。
文献に「下嶋」の地名が見えることから、この頃までに上島と下島が分かれたと考えられる。
宇山村に溜池が作られる。(市史3巻160頁)花池と思われる。
坂村と渚村が領域の悪水をめぐって水論になる。悪水とは、用水の後で不要になった過剰な水のことで、この排水処理の成否が大水、洪水時の被害の軽重に影響を及ぼすため、村々にとっては死活問題だった。この時は、坂村に非があるとされ、小寺繩手が築かれるとともに、坂村悪水樋がつくられる。(市史3巻394頁)
坂村が枚方宿の助郷に加えられる。幕末までに下島村と宇山村も加えられる。
招提村で大火が発生し、村中7割方焼失する。(市史7巻733頁)
下島村が坂村、渚村を相手にして、村境侵害訴訟を起こす。(市史8巻37頁)
享保期の各村の石高(郷土史123頁表3)
坂村 | 約539 |
宇山村 | 約205 |
養父村 | 約398 |
上島村 | 約79 |
下島村 | 約71 |
招提村 | 約1186 |
楠葉村の悪水抜きを目的として、下島村に新井路がつくられることになる。(市史3巻170頁)この新井路が利根川で、既に天井川になっていた船橋川の下に樋(樋ノ上樋)がつくられたと考えられる。地元では、利根川と藤本川と併せて井路川と呼んでいたのではないかと思われる。また、この頃までに藤本川の悪水は穂谷川の下を六軒樋でくぐって渚方面に流されていたと思われる。
渚村から下流の岡新町、岡、三矢の3村に対して悪水井路掘削の交渉が開始される。(市史3巻170頁)
渚村からの悪水井路が完成し、楠葉、養父、上島、下島、宇山、坂方面からの悪水を枚方表で淀川へ落とすことになる。(市史3巻171頁)
河内交野郡招提村の淀川堤が150間(約272m)にわたって決壊する。(府史6巻258頁)当時の招提村の西端が淀川に接していたのか、船橋川などの支川の決壊なのかは不明。
この頃、坂村に岡田本房や小磯逸、三浦蘭阪らの文化人が輩出する。(市史3巻799頁-)岡田本房は、寛延3年生まれで、旗本水野家の家老を勤めた後、地元に帰って代官になるとともに片埜神社の祠官を継いだ。鶴鳴と号し、「岡氏家訓」(寛政2年)、「同後編」「鶴鳴詩鈔」(寛政3年)、「鶴鳴文鈔」「雪乃明仄」(いずれも寛政12年刊行)などの著作が多数ある。小磯逸は、岡田本房の夫人となり紀行文「於くのあら海」(寛政2年)を残している。三浦蘭阪は、明和2(1765)年生まれの医師で、「川内摭古小識」(文化3(1806)年2月)、「名物摭古小識」(天保3(1832)年)、「爾雅名物小識」(天保5)、「難経弁註」ほか医学、本草学、博物学、考古学に及ぶ数十冊の著作を残し、天保14(1843)年に没する。
坂村の京街道沿いに一ノ宮(片埜神社)の鳥居と御神灯が建てられる。現在の黄金野一丁目(阪今池公園南西側)で、鳥居は倒壊しているが、御神灯一対は今も残っている。
穂谷川の水争いが起こる。穂谷川上流の津田村から中宮村への分水について、下流の村と7年に及ぶ水争いとなる。
校区周辺の寺子屋(市史3巻764頁226表)
所在地 | 師匠名 | 身分 | 学科 | 開業 | 廃業 | 寺子数 | 調査年代 | |
男 | 女 | |||||||
坂村 | 柏岡 播竜 | 僧 | 習字・読書 | 天保3(1832) | 明治元(1868) | 25 | 15 | 慶応3 |
岡田 幸之允 | 農 | 習字・読書 | 弘化6(1849) | 万延元(1860) | 40 | 20 | 万延元 | |
養父村 | 湯浅 文平 | 農 | 習字・算術 | 万延元(1860) | 明治5(1872) | 25 | 28 | 慶応3 |
招提村 | 芝崎 淳伯 | 医 | 習字・読書 | 安政元(1854) | 明治5(1872) | 40 | 10 | 明治元 |
小笹 英誉 | 僧 | 習字・読書 | 天保3(1832) | 明治5(1872) | 35 | 25 | 慶応3 | |
片岡 半右衛門 | 農 | 不明 |
4月末から雨が降り続き、5月13日になって淀川右岸が決壊、左岸でも内水が溢れ、牧野付近でも7尺(約2.1m)に達する。夜になって、下島村古樋の堤防が36間(約65.5m)にわたって決壊、14日には坂村の土橋が流失、下島村では穂谷川が決壊する。江戸時代には、淀川とその支川の氾濫が相次いでおり、その治水は、この年、明治維新により誕生した新政府の大きな課題となる。