第五章 歴史コラム「歴史に消えた学校」

 殿山第二小学校(殿二校)の130年にわたる歴史を調べていく中で、現在の殿二校区とその周辺に幾つかの「消えた」小学校があったことがわかってきました。まだ資料不足で詳細はわかっていませんが、現時点で確認できたことと推定されることを書き出してみます。

第七区郷学校(本校)

 堺県が管内54区に各1校設置することとした「郷学校」の一つとして、明治5年5月に阪村片埜神社で開校。校区は、堺県河内国第七区の坂(阪)村、宇山村、養父村、招提村、上島村、下島村、楠葉村、船橋村、渚村、中宮村、禁野村の交野郡11か村。

 現在の枚方市域周辺は河内国第五区から第八区にあたり、第五区郷学校は7月に私部村(現在は交野市域)に、第六区郷学校(現在の津田小学校)は6月に津田村尊光寺、第八区郷学校(現在の嗟だ小学校)は同じ6月に出口村光善寺に設けられており、この中では第七区郷学校が最も早く設立されていることから、枚方市域初の小学校と言える。

 各郷学校には、出張所と呼ばれる「分校」が適宜設けられることとなっており、第七区郷学校の場合は、招提村、中宮村(現在の中宮小学校)、楠葉村(現在の楠葉小学校)の3か所に出張所が設けられた。

 招提村の出張所(分校)の開校をもって現在の殿二校の創立としているが、この出張所は招提村一村のみを校区としており、所在地や校区の観点からは、この郷学校本校の開校を殿二校の創立としてもよいように思われる。

(市史4巻348頁101表)

第百五十五小学校、渚(村)小学校・牧野尋常小学校・牧野尋常高等小学校

 これらの小学校は、後の殿山第一小学校(殿一校)につながるので、厳密には「消えた学校」ではないが、再三の災害により校舎が失われたことなどから、沿革に謎が多い。

 殿一誌によると、渚(村)小学校は、明治8年5月28日に小倉、渚、磯島の3か村により、清伝寺(現在の三栗1丁目に所在)で開校したとしている。しかし、この渚小学校は第百五十五番小学校という番号を持っていたという記録が殿一校に残っており、府教育史にもこの番号が記載されている。番号による小学校名を廃止して地名に改めたのが同じ明治8年5月の25日であるから、番号名を持った学校が5月25日以降に創立されたということには矛盾がある。

 さらに、市史3巻では、明治8年の渚小学校の校区として、坂村、渚村、小倉村、磯島村の4村を挙げており、同4巻では明治7年の同校の児童数を記載している。これらの点から、清伝寺での開校以前に何処かに「渚小学校」があった可能性がある。ただし、この場合も坂(阪)村が校区であったかどうかは問題となり、明治14年には存在したことが確実な阪(村)小学校との関係が謎として残る。

 次に、殿一誌では、明治17年7月に戸長役場制度が実施されたことにより、校区に禁野村と坂(阪)村を加えたとしているが、当時は行政区域と学区が必ずしもリンクしておらず、大阪府が学区併合促進を打ち出したのは、同年11月15日であることから、7月の校区変更には疑問がある。殿二誌では、明治18年4月に校区の変更が行われたとしており、阪(村)小学校の廃止が18年3月末であったと考えられることから、殿一校の校区変更も18年4月であった可能性が高い。

 また、同様に明治22年4月の町村制施行により村立牧野尋常小学校と改称したと記録されているが、市史では明治20年4月の小学校令施行時に牧野尋常小学校があったことになっている。以上の諸点から、殿一校の沿革に関する記録は、後年になって整備されたものであると考えざるを得ない。

 渚小学校は、明治10年に渚院址に校舎を新築して移転、牧野尋常小学校時代を経て、明治34年9月に高等科を併設して、牧野尋常高等小学校となる際に、牧野村大字渚字東上野の現殿一校地に校舎を新築したとされる。

 昭和9年9月21日午前8時過ぎに大阪を通過した室戸台風により校舎が倒壊、教員2名と児童15名の犠牲者が出る。これを契機に10年2月11日に牧野村と招提村が合併して殿山町となったことから、殿山第一尋常高等小学校と改称し、同年4月には阪、宇山、養父、上島、下島の北部旧5村を第二校の校区とする。

 昭和11年10月24日にようやく校舎が再建、翌12年2月から使用を開始するが、この校舎も14年3月1日午後2時40分に発生した禁野火薬庫の大爆発により全焼する。犠牲者こそ無かったものの、これら2回の罹災により学校の沿革に関する記録が失われたものと思われる。

(府教育史1巻39頁、市史3巻773頁228表、4巻352頁103表・353頁104表・536頁~・739頁~)

宇山小学校

 明治7年頃に宇山村で開校したと思われる。所在地は不明。校区は、宇山村、養父村、上島村、下島村の4か村。現在でも「しかごう」(四箇郷)と呼ばれるのはこの4村を指す。市史には、明治7年から10年の児童数等が記載されており、殿二誌の校区変遷に係る記述から明治12年12月頃に廃校になったものと考えられる。

 この後、宇山村と養父村は招提小学校の、上島村と下島村は阪小学校の校区となる。

(市史3巻773頁228表、4巻352頁103表)

阪(村)小学校

 明治12年12月頃に宇山小学校の廃校と前後して開校したと思われる。開校当時は、一文字の地名の場合は「村」(又は「町」)を加えて校名とするのが通例だったため、阪村小学校を正式校名にしていたと思われる。所在地は不明だが、片埜神社又は清岸寺か。校区は、坂(阪)村、上島村、下島村の3か村。明治14年に存在していたことは複数の資料から確認できるが、17年11月に大阪府から学区併合促進の方針が示されたことを受けて、18年3月末までに廃校になったと考えられる。

 この後、坂(阪)村は渚小学校の、上島村と下島村は招提小学校の校区となる。

(府教育史3巻187頁、市史11巻633頁)

交北高等小学校

 明治20年4月に坂(阪)村片埜神社で開校。校舎は帝釈堂跡と伝えられる。校区は、旧第七区の坂(阪)、宇山、養父、招提、上島、下島、楠葉、船橋、渚、中宮、禁野に加えて、田口、片鉾、甲斐田、磯島の計16か村の組合によって発足した。校名の「交北」は交野郡の北部という意味で、別に交南高等小学校も設けられている。

 明治21年1月には、津田・平松両高等小学校を吸収合併し、津田、野、春日、尊延寺、穂谷、杉の6か村を加えて計22か村の組合となり、坂(阪)村の清岸寺に移転する。

 さらに、同年5月には田口村に新校舎を建設して再移転する。現在の交北小学校や交北という地名は、この学校に由来する。

 明治22年の町村制施行以降、34年に牧野村、41年に樟葉村が分離独立、45年3月に解散、廃校となった。

(市史4巻359頁~)

(平成15年1月28日初稿、10月15日最終修正)