殿山第二小学校の創立120周年記念誌の表紙には、「開校 1872(明治5)年9月 学制により開校(河内国第七区郷学校分校)その後たびたび改称し、現在の名称となる」と記載されています。創立百周年記念誌や学校教育計画など、その他の資料にも同様のことが記載されており、それらを総合すると「学制により、明治5年9月1日に第四大区 河内国 第七区 郷学校 分校として創立し、招提村を校区とした」というのが、殿山第二小学校の創立経緯ということになります。今回、校区の歴史を整理するにあたり、まず、この事実を検証することから始めました。すると、この短い語句の中に幾つかの謎と虚構が潜んでいることがわかってきたのです。ここでは太字部分の語句を順に解説してみます。
まず、学制とは、明治5年8月3日(新暦では9月5日)に文部省布達第13号及び第14号をもって公布された日本最初の近代的学校制度に関する基本法令(文部省設置後最初の学校構想)です。学制は、全国を8大学区に分け大学校、大学区を32中学区に分け中学校、中学区を210小学区に分けて小学校1校をそれぞれ置くという壮大な計画でした。どうして「壮大」かというと、この計算でいくと、全国に53,760校もの小学校を開設することになるからです。文部科学省の学校基本統計によると、平成14年5月1日現在の全国の小学校数は23,808校ですから、何とその2.26倍という数になります。明治維新直後の富国強兵が急がれる社会経済情勢の中で、政府が如何に教育、特に小学校教育を重視していたかがわかります。しかし、実際には、明治8年の時点でやっと現在と同じ24,000校に達したものの、同12年9月には学制が廃止され、17年頃になると教員確保などの経済事情から統廃合が奨励されるなど、この目標が達成されることはありませんでした。
問題は、「学制により」、明治5年9月1日により開校したとされていることです。旧文部省が作成した学制史で明記されていることなのですが、学制は「明治6年から全国的に施行された」ものなのです。つまり、創立年月とされる明治5年9月には公布済ですが、未施行なのです。これが最初の謎です。また、開校は9月1日とされていますが、現在の殿山第二小学校の創立記念日は10月11日です。これはすぐに解くことができました。学制公布の項でも書いたように当時は旧暦(太陰太陽暦)を採用していましたから、9月1日を新暦(太陽暦)に置き換えると10月3日となります。つまり、「10月」は合っているわけです。創立記念日がいつから設けられたかは不明ですが、平成11年10月14日に成立した国民の祝日に関する法律を一部改正する法律(いわゆる「ハッピーマンデー法」)により、体育の日が10月の第2月曜日に変更されるまでは、10月10日が体育の日でしたから、連休にするために10月11日としたのでしょう。運動会との関係もあったのかも知れません。
さて、次の語句は、第四大区です。これは、第四大学区のことで、前述の学制による大学区の一つです。資料によると、大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、堺県、和歌山県、飾磨県、豊岡県、高知県、名東県、香川県、岡山県、滋賀県が第四大区とされており、当時、枚方周辺は堺県に属していましたから、第四大区は正しいわけです。ただ、学制が施行されていない以上、学校名に大学区を冠していたとは考えにくく、学制によるのであれば、中学区や小学区の番号はどうして冠されていないのかが謎となります。
次の謎の語句が河内国。小学校の教科書にさえもあるように、明治4年7月14日(新暦では8月29日にあたる)に廃藩置県が実施されているので、律令制以来の「国」は無くなっているはずです。第四大区でも触れたように今の大阪府域に、大阪府と堺県があり、枚方周辺は堺県に属していたのですが、この頃の府県は現在のものとは異なり、地方自治体ではなく国の出先機関です。堺県の場合は、旧の和泉国と河内国を管内にしており、住民もその方が馴染みやすかったために、町や村などの基礎的行政区分を大括りする単位として、和泉国や河内国、あるいは、泉州や河州という呼称を残したようです。
続いて第七区。これが中学区や小学区の番号であれば、「第四大区」との辻褄があってくるのですが、実はこれらとは違います。大阪府史などによりますと、明治5年2月に堺県は区画制と呼ばれる行政区画制度を実施しており、和泉国(泉州)を25区、河内国(河州)を29区に分けています。第七区というのは、この区画制によるもので、校区周辺にあたる坂村、宇山村、養父村、招提村、上島村、下島村の6か村と、渚村、船橋村、楠葉村、中宮村、禁野村の合計11か村がこれに当たります。
そして、郷学校。市史4巻の記述を引用しますと「郷学校は、地域により郷学・義校または小学とも呼ばれ、呼称は一定していないが、明治維新後各地で設立された学校で(中略)堺県下の郷学校は、強力な行政指導によって設立されたことが特徴的」とされています。「各学区が明治5年2月制定の行政区と同じであることおよび堺県の組織的な学校設立の指示が同年3月ごろであること」が指摘され、「堺県下の学制実施は、明治6年5月からで、5年8月「学制」発布後も県は郷学校の充実を図っていた」とあります。つまり、郷学校と学制は結びつかないのです。府教育史でも同様のことが確認できます。すると、「学制により」と「第四大区」は「虚構」ということになってしまいます。
最後に分校と招提村を校区としたという点。分校というからには、本校があったはずです。それは何処だったのでしょう。それに、招提村だけが校区だったとすると、阪(坂)村や宇山村、養父村はどうだったのでしょう。この答えとして、さきほどの市史4巻によると、第七区郷学校は、明治5年5月に坂(阪)村片埜神社で設立されたことが記述されています。つまり、本校は阪にあったのです。そして、5月の開校時点では、第七区11か村がすべて、この郷学校の校区だったのです。同じ資料に、「出張所」として明治5年9月設立、招提村敬応寺という記述があります。府教育史でも郷学校には「分校」ではなく「出張所」が置かれたことが書かれており、当時は分校と呼ばずに出張所と呼ぶのが正式だったようです。つまり、「分校」というのも「虚構」だったわけです。ただ、出張所では学校らしからないので、普段は分校と呼んでいた、ということは十分に考えられます。
では、どうしてこのような形で校名が伝わってきたのでしょう。冒頭に紹介した各種資料の引用元として、教頭先生に教えていただいたのが、「沿革誌」です。校長室の金庫に大事に収納されている「沿革誌」を校長先生に見せていただいて、その「謎」が解けました。沿革誌の初めの方の頁に「学校の名称及位置変更」として「明治五年九月第四大区河内国第七区郷学校ノ分校トナリ普通学の初歩ヲ授ク招提村敬応寺ヲ以テ校舎トス」とあります。また、「学区ノ分合」の頁には「明治五年九月招提村一村ヲ以テ設置区域トス」とあります。各種資料は、これを写しているわけです。ところが、この沿革誌は毛筆による手書き資料で、「大阪府北河内郡招提尋常小学校」と印刷した用紙に記入されています。大阪府に「北河内郡」ができたのは、明治29年4月ですから、この沿革誌はそれ以降に書かれた資料ということになります。これで全ての「謎」が解けます。明治以降の教育制度や行政区画の変更が余りにも頻繁で複雑だったために、四半世紀近くたった頃には、既に創立経緯が混乱していたということです。特に、学制による学区と区画制による行政区画とがいずれも番号制だったために混乱に拍車をかけたのでしょう。
実際、沿革誌の「学区内戸数人口ノ増減」は、明治31年度から記述が始まっていますし、「学校基本財産及校費増減ノ情況」に至っては、「明治二十六年新学令実施以前ハ詳ナラズ故ニ不掲ス」となっています。学制史によれば第二次小学校令は明治25年4月の施行ですから、この記述も間違っているのですが、いずれにしても明治17年5月6日に大阪府が制定した「学校沿革誌、日誌調製基準条項」により作成されたはずの「沿革誌」ですら、この時点(明治31年頃と推定される)には既に学校に残されていなかったことになります。ましてや、明治5年の開校当時のことは、明確な資料で残されていなかったと考えられます。
現在の枚方市域で最初に設立された坂(阪)の第七区郷学校(本校)は、創立後わずか一年で、出張所だった招提校に吸収されて学制による「堺県河州第六十五番小学校」になってしまったために、その校史を残すことはありませんでした。しかし、校区の歴史として捉えた場合には、この第七区郷学校(本校)こそが、校区最初の「小学校」だったと言えるのではないでしょうか。調べを進めていく中で、校区には他にも「消えた小学校」があったことがわかってきました。、これらについてはいずれ稿を改めるとして、とりあえずの締めくくりに「第四大区河内国第七区郷学校分校」の本当の名前を書いておきたいと思います。それは、「堺県河内国第七区郷学校出張所」です。翌明治6年5月に学区編成を行った際には、「河内国」ではなく、「河州」を正式文書で使用していますから、「堺県河州第七区郷学校出張所」とすべきかも知れません。なお、第七区郷学校の出張所は、他にも中宮村と楠葉村にありましたから、それらと区別するためには「招提(村)出張所」となります。
明治5年に始まる「殿二」130年の歴史は、この後も社会の変革に連れて波乱万丈の道を辿っていきます。
(平成15年1月22日初稿、2月5日最終修正)