第八章 創立150周年にあたって

学校の創立

 みなさんは、「郷学校」ってご存知ですか?

 郷学校は、明治5年3月に「堺県」が、県内各地に設置することを決めた学校です。国は、同じ年の8月に「学制」を発布して、全国に「小学校」を設置することを決めますので、「郷学校」は、「小学校」の原型の一つと言えます。

 それでは、「堺県」とは何でしょう。明治初期、現在の大阪府の府域の内、淀川より南側の大阪市周辺を除いた部分の「河内国」や「和泉国」の地域に、「堺県」が置かれました。明治14年に堺県が大阪府に編入されるまで、現在の枚方市付近は「堺県」だったのです。

 殿山第二小学校は、明治5年5月に阪の片埜神社に開校した堺県河内国第7区郷学校、そして同年9月に招提の敬応寺に開校した同校の分校をルーツとする、枚方市のみならず北河内地域で最も古い小学校です。明治5年は1872年ですので、今年で150周年を迎えました。

 明治6年4月に「学制」が施行されて全国に小学校が設置されると、第7区郷学校は第64番から第66番の3つの小学校となり、この内の第65番小学校が現在の殿山第二小学校に続いていきます。

校区の変遷(クリック or タップで拡大できます。)
校区の変遷(クリック or タップで拡大できます。)

校名の由来

 明治5年に「郷学校」として誕生した殿山第二小学校は、明治20年の「小学校令」により、「招提尋常小学校」となります。同じ年には片埜神社に「交北高等小学校」が開校しました。

 さらに、明治22年には「町村制」が施行され、現在の校区の大半は「牧野村」に属することになります。そのため、招提小に通っていた子どもたちの多くが、「牧野尋常小学校」に転校することになりました。この牧野小があった場所が、現在の殿山第一小学校です。

 その後、両校ともに高等科を併設して尋常高等小学校となり、しばらくそのまま続きますが、昭和9年9月21日に両校を室戸台風が襲います。淀川の北側を進んだ台風の猛烈な暴風により、牧野小の校舎が倒壊、招提小の校舎も大きな被害を受けました。この被害から小学校を再建するため、昭和10年2月に牧野村と招提村が合併し、「殿山町」が発足します。

 殿山町の役場が置かれた旧牧野村役場(渚院跡)から近い順に牧野小が「第一」、招提小が「第二」となったのが、現在の校名の由来となります。昭和11年1月には、旧牧野村と旧招提村の境界に近い現在の場所に新しい校舎が建てられました。

 この殿山町は、昭和13年11月に枚方町などの周辺町村と合併して、消滅したため、「殿山」の名が残るのは両校の校名だけとなりました。

(令和4年11月 創立150周年記念式典に向けて初稿)